フェニキア(Phoenicia)は、独立した複数の都市国家からなる古代文明である。現在のシリア(Syria)、レバノン(Lebanon)、イスラエル(Israel)北部にかけて地中海沿岸に存在していた。フェニキア人は卓越した海洋民族であり、彼らの巨大な船には海の神ヤム(Yamm)を称えた馬の頭の装飾が施されていた。ヤムは死を司る神モト(Mot)の兄弟でもある。
ティルス(Tyre)およびシドン(Sidon)がフェニキアの中でも最も強力な都市国家であり、ゲバル (Gebal)およびバールベック(Baalbek)は重要な宗教の中心地であった。ティルスは島嶼都市であった。また、ゲバルはビブロス (Byblos)とも呼ばれた。フェニキアの都市国家は紀元前3200年頃に形成され始め、紀元前2750年頃までに確立した。紀元前1500年から前332年にかけて海上貿易と製造業の中心地として繁栄し、造船、ガラス工芸、染料の生産、贅沢品や日用品の洗練された製造技術で高く評価された。
紫の民
メソポタミアの王族が着る衣服のために、ティルスで生産されていた紫色の染料(Tyrian purple)はギリシャ語でフォイニケス(Phoinikes)と呼ばれ、これがフェニキアの名前の由来となっている。さらに、ギリシャ人の歴史家であるヘロドトス(Herodotus)が伝えているように、フェニキア人はギリシャ人から「紫の民」と呼ばれていた。これは彼らの肌にも染料の色が移ったからである。
アルファベットの起源はフェニキアにあり、フェニキア人カドモス(Kadmus)によって紀元前8世紀より前にギリシャに導入される以前には、ギリシャにアルファベットは存在しなかったとヘロドトスは述べている。フェニキアのアルファベットは今日書かれている大部分の西洋諸言語の基礎となっている。フェニキアの都市ゲバル(ギリシャ人からはビブロスと呼ばれた)は聖書(Bible)の名前の由来となっており、ギリシャ語で本を意味するTa bibliaからきている。ゲバルは古代エジプトおよびギリシャで文字を書くのに使われたパピルス(papyrus)の輸出元であった。パピルスはギリシャ語ではブブロス(bublos)と呼ばれていた。
他にも、ギリシャ神話に出てくる多くの神々がフェニキアから輸入されたと考えられている。例えば、フェニキアの神バール(Baal)およびヤムにまつわる説話と、ギリシャの神ゼウス(Zeus)およびポセイドン(Poseidon)にまつわる説話にはかなりの共通性がある。また、聖書の「ヨハネの黙示録」(Book of Revelation)に登場する神とサタン(Satan)の戦いは、バールとヤムについてのフェニキア神話に見られる同様の争いが元になっていると思われることも注目される。
フェニキアが存在していた当時、フェニキアはカナーン(Canaan)として知られていた。これは旧約聖書においてモーゼ(Moses)がエジプトから脱出したイスラエルの民を導き、後にヨシュア(Joshua)が征服した場所として言及される地である。ただし、この説話は聖書の「出エジプト記」(Book of Exodus)とヨシュア記(Book of Joshua)にのみ登場し、他の古文書には言及されておらず、発掘による証拠もあがっていない。歴史家リチャード・マイルス(Richard Miles)によれば、
この地の人々はカナン(Canaan)の地の住人であるカン・ナイ(Can’nai)という民族的アイデンティティを共有しており、言語的、文化的、宗教的な共通性があるにも関わらず、政治的に統合されたことがほとんどなく、個々の都市は王によって治められた一つの主権国家として振る舞っていた。(26)
フェニキアの都市国家は紀元前1500年から、アレキサンダー大王(Alexander the Great)によって主要な都市が征服される紀元前332年までの間、海上貿易により栄えた。大王の死後は、その後継者をめぐる元配下の将軍たちの間での戦場となった。フェニキア由来の工芸品は、近くはエジプトから、遠くはイギリスからも出土しており、フェニキアの高級品が取引先の各文化から極めて高く評価されていたことがうかがえる。
貿易の仲介人
フェニキア人はとりわけ航海者として知られており、優れた造船の技術に加えて、荒れた地中海を航海できる高い操船術をもっていた。造船の技術は都市ビブロスで確立したと見られており、湾曲した形態の船体設計はビブロスが最初である。リチャード・マイルスによれば、
その後何世紀にもわたって、ビブロスに加えてシドン、ティルス、アルバド(Arvad)、ベイルート(Beirut)などのフェニキア諸都市は、高級品や大量の原材料を海外から中東に輸送してそれぞれ独自の市場を開拓した。交易は主に東地中海で展開され、キプロス、ロードス島、キクラデス諸島、ギリシャ本土、クレタ島、リビア沿岸、そしてエジプトがその中に含まれていた。(28)
しかし、フェニキアの航海者たちはイギリスやメソポタミアの港にも進出していたことでも知られている。
フェニキアの難破船からは、彼らが運んでいた積荷の一次情報が考古学者にもたらされている:
銅や錫のインゴットに加えて、香料(unguent)、ワイン、油、ガラス、金銀宝石、ファイアンス(faience)焼きの貴重品、彩色された陶芸道具、さらには金属くずなどが入っていたと思われる保存容器もあった。(マイルズ、28)
フェニキアで生産される製品は極めて高く評価されていたため、近東の他の地域が被ったような軍事的な侵略からは免れることができた。大抵の場合、軍事大国はフェニキアが貿易に専念するよう手をつけなかったが、他の近隣諸国から妬まれることがなかったというわけではない。聖書ではフェニキア人は「海の君主」と呼ばれている。エゼキエル書26章16節(Ezekiel 26:16)では、都市ティルスの崩壊が予言され、それまで名声を得ていた者たちが屈服することに満足を覚えている様子が伺える。
いずれにせよ、フェニキア製品の人気の高さについては疑いようがない。シドンのガラス職人の技術があまりに高いことから、ガラスはシドンで発明されたと考えられていた。シドンの技術はエジプトのファイアンス製造の手本となり、青銅や銀加工の基準となった。さらに、フェニキア人は大量生産の手法を開発していたと思われる。フェニキア人が交易をおこなっていた各地から、同一の方法で大量に作られた類似の工芸品が見つかっている。同じくリチャード・マイルズによれば、
よく好まれた図柄は、ホルス(Horus)の目、コガネムシ、太陽三日月(solar crescent )といったエジプトの魔術的シンボルで、これをもつ者は生者の世界を徘徊する悪霊から身を守ることができると考えられていた。(30)
先にも述べたフェニキアの紫色染料は、メソポタミア、エジプトそしてローマ帝国に至るまで、王族にとって標準的な装飾の一部となった。これはすべて、フェニキア都市国家間の競争、商品を運ぶ船乗りたちの技術、職人たちの高い製造技術によって達成されたものである。
フェニキアで最も有力な都市国家であったティルスとシドンの間の競争がとりわけ熾烈であった。両都市は、ビブロスの商人たちとともに、貿易相手国の文化信仰や社会規範を互いに伝え合った。フェニキア人は、文化の伝播に果たした枠割から、多くの歴史家から「古代における文化の仲介者」と呼ばれている。
ティルスとシドン
シドンは最も繁栄を極めた都市であったが、姉妹都市であるティルスに徐々に勢力を奪われていった。ティルスは新興のイスラエル王国と同盟を結び、聖職者階級の力を弱め、富をより効率的に市民に分配することで大幅に資産を増大させた。
シドンは、イスラエルとの交易で同じような繁栄を手にするために、婚姻を通じて関係強化を図った。聖書の列王記上・下(I and II Kings)において、シドンは古代イスラエル王アハブ(Ahab)と結婚した王女イゼベル(Jezebel)の生誕地である。イゼベルは自身の宗教と尊厳、文化的アイデンティティを夫の文化に譲り渡すことを拒否したが、これはアハブの臣下の多くにとって受け入れ難いことであり、とりわけヘブライの預言者エリヤ(Elijah)は彼女を繰り返し非難した。アハブとイゼベルの統治はクーデターによって幕を閉じた。エリヤに触発された将軍イエフ(Jehu)は軍を掌握して王座を簒奪し、これによりシドンとイスラエルの間の交易関係は途絶えた。しかし、ティルスはその後も繁栄を続ける。
アレキサンダー大王によるフェニキア征服
紀元前332年、アレキサンダー大王はバールベックを攻略し、街の名前をヘリオポリス(Heliopolis)に改名した。そして同じ年のうちにビブロスとシドンを屈服させた。ティルスでは、市民はシドンに倣って平和的に服従を申し出た。アレキサンダー大王はさらに、神聖なるメルカルト(Melqart)の神殿で生贄を捧げることを望んだが、ティルスはこれを許すことができなかった。
ティルスの宗教的信条として、外国人が生贄を捧げることも、儀式に参列することも禁じていた。ティルスは妥協案として、神殿が安置されている島ではなく、対岸の本土にある旧市街でなら生贄を捧げることを許可した。しかしアレキサンダー大王はこれを良しとせず、ティルスに使者を送って服従をせまった。これに対しティルスは使者を殺し、その遺体を城壁から投げ捨てた。
ここに至って、アレキサンダー大王はティルスの包囲を命じた。彼の決意は固く、旧市街の廃墟、瓦礫、倒木を集めて、本土からティルスのある島にまでつながる道を造ってしまった(ちなみに何世紀にもおよぶ堆積物によって現在のティルスは島ではなくなっている)。数ヶ月の包囲の後、ついに城壁が破られティルス市民のほとんどは殺害された。
3万人以上のティルス市民が虐殺されたか奴隷として売られたと推定されている。隠れて逃亡した者を除けば、ごく一部の富裕層のみが十分な賄賂でもって命からがら逃げることを許された。ティルスの陥落後、他の都市国家はシドンに倣ってアレキサンダー大王に服従した。ここにフェニキアの文明は滅び、代わってヘレニズム時代(Hellenistic Age)が到来する。
ローマ時代のフェニキア
紀元前64年、分断されたフェニキアの地はローマ(Rome)に併合され、紀元前15年にはローマ帝国(Roman Empire)の植民地となった。ヘリオポリスは重要な巡礼地として残り、帝国内で最も壮大な宗教建築(ユピテル・バール神殿 [Temple of Jupiter Baal])をもつ地として威勢を誇った。神殿の廃墟は今日までよく保存されている。フェニキアの最大の遺産は間違いなくアルファベットだが、彼らの芸術への貢献や、古代世界の文化を各地に広めた役割も同じように重要である。